ありがとうカーチャン

午前3時半過ぎ、突然、家の電話が鳴る。こんな時間にいい電話のはずがない。高鳴る胸をなだめて、受話器を取ると、やはりカーチャンの病院から。容態が急変した、できるだけ早く来てほしい、とのこと。
しかし、すぐにタクシーで行っても、1時間以上はかかってしまう。とりあえず、トーチャンに電話して、先に行っててもらうことにして、急いで出かける準備。だが、気がせくほど、何をしていいかわからず、家の中をうろうろするばかり。水を飲み、ようやく心を少し落ち着かせて、タクシー会社を検索し、タクシーを呼び、さっと着替え、荷物をとりまとめて家を出る。もちろんオクチャンも一緒。
病院に着いたのは5時半過ぎ。病室に行くと、人工呼吸器などさまざまな管につながれたカーチャンが。ベッドにはカーチャンがはいた血のあと。口のはしからも血が滴っている。先生の話によると、3時過ぎくらいに急性心不全で心臓が止まり、いろいろ処置したが持ち直さず、人工呼吸器でオイラたちが到着するまで持ちこたえさせていたという。
しばし2人きりになり、寝たきりになって以来、硬くなった手足をさすり、肩をそっと抱き、耳元で、「カーチャン、ありがとうね。長い間、本当にお疲れ様だったね。ゆっくり休んでね」と声をかける。もちろん、反応はないが。あれは、自分のための言葉だったのかな。
認知症を診断されてから丸3年、寝たきりになってから約4か月。平均というものからすると進行が早く短い予後だったのかもしれないが、日に日にままならなくなっていく頭と身体と戦いつづけたカーチャンの辛さ、苦しさを思うと、それはそれは長い日々だったのかもしれないな。
そして、先生に、楽にしてくださいとお願いすると、「ご家族のどなたかが時計を見て、時間をおっしゃっていただければ、それを臨終の時刻とさせていただきます」とのこと。そんなふうに決まるんだ、ちょっと意外だなあなどと、冷静に思ってしまう。時計を見ると、ちょうど午前6時。この時刻が診断書に記載されるカーチャンの死亡時刻となる。
身体をきれいにしてもらっている間に荷物をまとめ、安置されたカーチャンともう一度会い、トーチャンが家で今後の対応を検討したいというので、オクチャンと少し遅れて駆けつけてきたオバチャンに残ってもらい、歩いて実家へ。トーチャンと話して、結局、葬儀は病院から紹介されたところに頼んで、ごく内輪の家族葬で送ってあげることに。さっそく電話して、来てもらう。そうじゃなきゃ務まらないんだろうけど、実直そうな男の人でひと安心。明後日は友引で葬儀関係は何もやれないので、ならばということで、このあとすぐに手配して、病院に迎えに来てもらい、そのまま葬儀場に連れて行って、一晩霊安室に安置して、明日、荼毘に付すことに。
葬儀場まで一緒について行かせてもらうことにしたが、身体の具合が悪いトーチャンは、明日があるから今日はやめとくとのこと。再び病院に行くと、すでに葬儀社の寝台車が来ており、一緒に安置してある部屋へ。カーチャンの身体に触れると、前より冷たくなってきていた。ストレッチャーに移して、布でくるみ、寝台車へ。見送りにでいた病院スタッフの中に、この間、カーチャンの状態を説明してくれたドクターがいたので、お礼の挨拶。
寝台車ではカーチャンの隣に座り、車の振動で揺れるカーチャンをなだめるように、なでながら押さえる。葬儀場に着くと、しばし待つ間に、線香を上げるための簡単な設置をしてもらう。焼香し、そのあと、またカーチャンの顔をなでてあげる。短い髪の毛がついていたのをとってあげる。そして、「じゃあ、また明日ね」と声をかけ、タクシーで実家へ戻った。
本当なら、いったん家にカーチャンを家に連れて帰り、今夜は一晩中そばについていてあげたいという気持ちはあったけれど、現在の家の状況ではそれもかなわず、葬祭場でも今の都会のそれのシステムからは不可能だった。
実家でトーチャンにめしを出してもらい、食べながら話す。オイラたちがいると、トーチャンは落ち着いてめしを食えないというので、小一時間ほどで切り上げ、また明日ということで、いったん帰宅。
自宅でオクチャンと夕飯を食べながら、カーチャンの好きだったちあきなおみのCDをかけ、カーチャンのことをいろいろ話した。「黄昏のビギン」が流れると、どうにもこうにも涙が流れて仕方がなかった。