能「春日龍神」を見る

学生時代のセンパイが能楽師をしており、その人がシテをつとめる舞台があったので、東京まで見に行く。
ネットで一番安い中正面の席を予約して行ったんだけど、受付に行くと、なぜかそこはすでに誰かが買って入ってしまっているとのこと。
「この席は確かにオイラ(もちろん本当はオイラの名前を言ったのよ)さんで予約されています」
「ぼくがそのオイラなんですけど」
「でも私どもではお顔はわからないのでね」
といったやりとりのあと、
「じゃあ、せっかく予約していただいたんですから、空いている正面の席を中正面の値段でどうぞ」
ということになり、正面のとても良い席で見ることができてしまった。
ところが、いざ席に着いてみて眺めると、もともと予約した席には、どうも誰かが座っている様子がない。あれはいったい何だったんだろう。よもや、センパイが演じる春日龍神のお導きなのか。おお、オイラいまかなり気が利いたこと思いついちゃったぞ、なんて、たいした考えでもないのに1人でテンション上がってしまった。
さて、肝心の舞台はというと、前半の明恵上人と宮守の翁のやりとりは、ほとんど動きがないためか、どうしても幽玄の世界というより、むしろ夢幻の境地に誘われてしまいがちだったんだけど、一転、後半に龍神となって現れたセンパイの舞には、なぜか昔(学生時代に何度か見たことがある)以上に「きれ」があるように感じられ、その動きに魅入られてしまったのだった。
特に、センパイの動きにつれて面(おもて)の表情が、怒っているようにも、嘆いているようにも、あるいは威厳と慈愛に満ちているようにもと、さまざまに変化していくようで、目が離せなかったよ。
ただ、正直に言えば、頭の上につけた龍の作り物みたいなやつは、なぜか時々、妙におかしく思えてしまったこともあり。
センパイが出た演目以外にもいくつか見たけれど、能というのは、その美しさ(演者の立ち姿やまとっているものを含め)だけで、見るものに何かを与えてくれるものなんだなと、漠然となんだけど思い至ったのだった。
こんなふうな感慨を抱くなんて、オイラも年をとったってことかな。